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ピラミッドを見に行った (その5/6)

午後は、いよいよギザの3大ピラミッドとスフィンクスの見学である。3大ピラミッドの被葬者は、クフ王、その息子のカフラー王、孫にあたるメンカウラー王とされている。ピラミッド近くには王妃たちの小さなピラミッドが創られている。

ギザの3大ピラミッドはすぐ近くが市街地となっている。スフィンクスの視線の先にはケンタッキー・フライド・チキンのお店がある。私たちツアー客はその隣にあるレストランに案内された。そのレストランは、旅行会社のお気に入りのようで他の国からのツアー客でごった返していた。レストランの窓の向こうには、中央にある大ピラミッドとスフィンクスの雄大な風景が楽しめる。

ピラミッド地図

(↓レストランから見た3大ピラミッド。レストランの前はバスから降りた見物客でごった返していた。)



市街地から見て右側のピラミッドがクフ王のピラミッド。高さ146m。地震で頂上は崩れ、現在は138mとなっている。クフ王のピラミッドには230万個の石が使われている。210段に積み重ねられている。ひとつの石は22tから2.5tとばらばら。小さい石でも2.5tはある。目の前で見るととても大きい。四角錐の辺が寸分の狂いもないほど正確に東西南北を向いている。この辺で古代エジプトでは天文学が発達していたことが伺える。建設に20年かかった。

中央のピラミッドはクフ王の息子のカフラー王のピラミッド。高さ143.87m(現在の高さ136m)。頂上近くに化粧石が残っている。一番目立つ。現場に立つと、右側にあるクフ王のピラミッドより高いように見える。実際はクフ王のピラミッドのほうが高い。ピラミッドが立つ岩盤がクフ王のより高いところにあるためだ。このカフラー王のピラミッドの先にスフィンクスがある。スフィンクスは、他のところにあった岩石を使ったのではなかった。もともとあった岩山をそのまま掘り下げたもの。一枚岩としては世界最大の石像である。

三大ピラミッドの中ではもっとも小さいのがカフラー王の息子であるメンカウラー王のピラミッド。高さおよそ65メートル。

かつては、閑散期の農民が労役を提供したと言う説があった。最近の研究では、そんな片手間な仕事をやるようなことでピラミッドが作れるわけないだろう、それなりの技術と能力のある人が建設にかかわったと言う説が有力である。確かに、建設になれてない農民がピラミッド建設に従事するには無理がある。近くに建設者が滞在したとされる村も見つかっていた。建設中は、残された家族の分まで面倒を見た。食事は、昼食のみメニューが変わった。

ピラミッドの建設には奴隷はかかわらなかったそうだ。この点がローマのコロッセオが設計から建設まで奴隷が行ったと言うのとは大いに違っている。ここでも書いたが、ローマのコロッセオは設計から建設まで征服地から連れてきた奴隷が仕上げた。だから、例えば、豊臣秀吉が大阪城を作ったといったような、だれだれがコロッセオを作ったとは言われてない。

 クフ王のピラミッドの中には、8つの部屋がある。観光客は、ピラミッドの内部、玄室(王の間)まで入れる。入れるのは1日あたり300人までという人数制限がある。ツアー会社が入場券を準備してくれるところはありがたい。とは言え、行ってみるとわかるが、そこは開発途上国の曖昧なところ。ピラミッドの中は、結構混んでいる。どんどん人が入ってくる。300人以上を入場させているのは間違いない。

クフ王入口



現在使われているクフ王のピラミッドへの入り口は、正式な入り口ではない。9世紀にできた入り口を使って中へ入る。イスラム教のカリフが指揮して盗掘を企てた。その時にできた盗掘用の入り口。観光客のために内部の通路は、電灯が点いている。天井は低い。腰をかかげて、傾斜路を進む。しばらく行くと、階段を上らなければならない。中は、階段の部分が多い。蒸し暑い。入り口から50mは低い姿勢で進む。目的地の玄室は、思った以上に遠い。

やっとの思いで、玄室(王の間)に着いた。奥行きが約10.5メートル、幅が5.2メートル、高さは約5.8メートルです。17畳ぐらい。そこそこに広い。ガラーンとしている。壁も天井も装飾はなく、あるのは棺が入れてあったとされる石棺だけ。9世紀に盗掘を企んだカリフは、石工職人たちにはっぱをかけ、やっとの思いで玄室(王の間)まで着いたことだろう。苦労して、苦労を重ねて、やっとのことでたどり着いた大きな部屋。財宝がザクザクあることを期待していたのだろうけど、王の間には、石棺しかなかった。その石棺すら何も入ってなかった。

実際に入ってみてみるとたどり着くまでの苦労の大きさが実感できる。空っぽだったとわかった時の打ちひしがれた・・・なんてもんじゃいないだろうと想像がつく。怒り狂ったかもしれない。そんな意味からも、ピラミッドを見に行く機会があったなら、クフ王のピラミッドには入ることを薦めます。ちょっと驚きだったのが、その玄室には、建設時から通気孔が作られていたこと。すごい建築技術です。ちなみにクフ王の遺体(ミイラ)はいまだに見つかってない。遺体どころか副飾品がぜんぜん見つかってない。

ギザにあるスフィンクスは、これまで何度も砂に埋もれてきた。そして何度か、砂から掘り出されている。ナショナルジェオグラフィック誌によると、最初は紀元前1400年頃にトトメス4世の命によって、2度目はローマ時代、そして3度目は1925年にフランス人技師エミール・バレズによって作業が開始された。

スフィンクスと侍 

↑ 写真は、幕末の頃、1864年2月23日にピラミッドを訪れた時の写真。幕府の命によってお侍さんたち(外国奉行池田長発などの遣欧使節団34名)がフランスへ派遣された。紅海の入り口南イエメンのアデンの港に上陸した。その後、陸路で途中エジプト国王に謁見した。ちょっと寄り道して行こうかと言うことで、ピラミッドとスフィンクスを見学したらしい。お侍さんたちはスフィンクスのすぐ下、肩辺りにいる。見づらいが、スフィンクスの首の下、赤い丸のところにもお侍さんがいる。当時はシャッターをしばらく開けたままにしておく必要があった。首の下のお侍さんは、シャッターが開いている間に首下の所から転げ落ちてしまったので影が薄い。映りが悪くなっている。大勢が集まると中には必ずおっちょこちょいがいる。昔も今もあまり変わりない。

私は、スフィンクスには登らなかった。というか、だれも登っていなかった。ピラミッドは登頂禁止。きっとスフィンクスも登ると捕まるのだろう。現在では、観光客はスフィンクスの右横にある観覧台から眺める。そこからはスフィンクスの全体像をまじかで見渡すことができる。こんな↓写真も撮ることができる。
スフィンクスとキス

お侍さんの写真では、スフィンクスの胴体は砂で埋もれている。一方1925年までに撮影されたと思われる下のカラーの写真(↓)では、白黒写真では埋もれていた部分が写っている。この間に砂が乗り除かれたのだろう。その次の写真は現在の写真である。現在では、砂はきれいに取り除かれている。下の2番目の写真の左側部分は観望通路。

スフィンクス ナショナルジェオグラフィックmain_image

 


ピラミッドの後方には、3大ピラミッドを展望できる場所がある。観光用のラクダが3~40頭待っている。ラクダに乗ろうとすると料金を吹っかけてくる業者がいるようだ。ラクダに乗る料金は、ガイドさんがまとめて払うから決して自分たちでは料金交渉するなとアドバイスされた。タダでラクダに乗せてあげると言われて乗ると、乗るのはタダで降りるときに高額な降り料を請求されるケースもあるのだとか。この展望台はピラミッドからは数キロ離れている。ツアー用のバスかチャーターした車でなければ行けない。ビューポイント

夜は、オプショナルツアーで音と光のショーを見学。スフィンクスとピラミッドが正面に見える会場に連れて行かれた。会場で、音声レシーバーを渡される。19:00にショーが始まった。ピラミッドやスフィンクスに照明があたり暗闇の中に浮かび上がった。日本語でピラミッドの歴史やその作り手についての解説がレシーバーから聞こえてくる。と書けばロマンチックに響くが、照明は色こそ時々変わるもののピラミッドの下に設置されている投光器からのライトが点いたり消えたりするだけ。プロジェクトマッピングみたいな最近の照明技術を期待していると大間違い。しかも、1時間にわたって延々と古代エジプトの歴史を語られる。後半部分は飽きてきてしまった。コックリ、コックリ。このショーはお金を払わずに、会場の外で夜の照明だけを見るだけで十分。ピラミッド 光と音のショー Panorama-View-Of-The-Egyptian-Pyramids


ビラミッドを見るツアーでは、たいていこの音と光のショーの他に、ナイル川ディナークルーズがオプショナルツアーとして組み込まれていることが多い。ディナークルーズには船内でのベリーダンスが呼び物。おなかのぶよぶよした女性が出てくるとの旅行者談があったので申し込まなかった。このオプショナルツアーに参加した人に聞いたところなかなか良かったの感想。音と光のショーよりはましだったのかもしれない。ちなみに、ガイドさんによると、エジプトでは男性は太めの女性を好む傾向にあるそうだ。だからベリーダンスのダンサーはぷよぷよなのかと納得。しかし、ダンスをしていれば体が引き締まるとも思うのだけど・・・。
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ピラミッドを見に行った (その4)

前のブログからの続きですが、元号に続いてのもう一つの話題、イチローの引退のほうですが引退会見はみなかったのでその記事を読んでみました。最後のところで、フーン良いこと言ってるじゃないと思った。こんなことを言っていた。

(イチロー引退記者会見からの引用)
アメリカに来て、メジャーリーグに来て、外国人になったこと、アメリカでは僕は外国人ですから。このことは、外国人になったことで人の心を慮ったり、人の痛みを想像したり、今までなかった自分が現れたんですよね。この体験というのは、本を読んだり、情報を取ることができたとしても、体験しないと自分の中からは生まれないので。
 孤独を感じて苦しんだこと、多々ありました。ありましたけど、その体験は未来の自分にとって大きな支えになるんだろうと今は思います。だから、つらいこと、しんどいことから逃げたいというのは当然のことなんですけど、でもエネルギーのある元気のある時にそれに立ち向かっていく。そのことはすごく人として重要なことではないかと感じています。
(引用終わり)

イチローの引退を報道するときの記事は、だいたいが決まって以下のような記事だった。

(日刊スポーツからの引用)
数々の金字塔を打ち立てた日本最高の安打製造機が、ユニホームを脱ぐ。日米通算4367安打(日本1278、米国3089)のマリナーズ・イチロー外野手(45)が21日、アスレチックスとの開幕第2戦(東京ドーム)後、引退を発表した。
(引用終わり)

ここでチコちゃんの登場です。
チコちゃん:「ネェ、ネェー、イチローが金字塔を打ち立てたというけど、その金字塔って何?」
答えのわからない方はここをクリック

ずいぶんと前書きが長くなってしまった。
さて、エジプト旅行の続きです。

2日目は、この旅行のハイライト、ピラミッド見学である。7:00にホテルを出発した。バスは、韓国の現代車製。やはり本物の銃をぶら下げた警官が同乗している。ガイドの男性助手も加わった。バスには、添乗員と現地ガイドの女性、それに警察官と男性のガイド助手の4人が加わった。日本からの添乗員は手持ち不沙汰。そのつど、そのつどツアー客の人数を確かめるだけ。案外、エジプトへの添乗は、楽な仕事なのかもしれない。

「エジプトはナイルの賜物」、小学校あたりで習いました。ナイル川が、定期的に氾濫し、川が運んだ肥沃な土のおかげで、壮大な文明・国家が築かれた。エジプトで最初の統一王国ができたのは紀元前3000年前後とされている。最初の首都メンフィスから、ルクソール、アレキサンドリアと古代から現在に至るまでエジプトの首都は全てナイル川沿いにある。しかも東側に建設された。

古代エジプトでは、ナイル川西岸は“来世の地”とみなされていた。つまり墓地。ナイル川西岸は、川から離れるにつれ砂地が広がる。その先はサハラ砂漠へと続く。古代の王様は、砂漠とナイル川との中間の場所を選んでピラミッドを建てた。ピラミッドは砂漠の真ん中に立っているようなイメージがある。そのようなわけで、実際は思った以上に住居地に近いところにある。

メンフィスは古代エジプトの最初の都として栄えた。現在は博物館がある以外はすっかり廃墟となっている。メンフィスの墓所となっているのがサッカーラという街。サッカーラとは、現地語で“墓地”を意味する。このサッカーラには階段状のピラミッドがある。ギザの三大ピラミッドの次ぐらいに訪れることになるピラミッドだ。

もともとエジプトではお墓には貴人と一般の区別は無かった。初期王朝の頃からファラオ(王様)や貴人の墓として、長方形の形をしたお墓、マスタバが作られ始めた。やがて、ファラオが神格されて、ピラミッドがつくられ始める。サッカーラの“階段状ピラミッド”はこのマスタバを重ねた。6重に重ねている。最初の階段状ピラミッドで、階段状ピラミッドとしては最大である。ジェゼル王が建設した。高さは62m、底辺は東西125メートル、南北109メートルの長方形。この階段ピラミッドは、もともとは、高さ10m、いっぺん63mの正方形のマスタバとして建設される予定だった。

第4王朝初代の王スネフェル王(在前2613~前2589年)が即位すると、墓地をダハシュールに移し、ピラミッドの建設に着手した。この頃になるとピラミッドの建設技術も進化していた。古代エジプト人が崇めた太陽神がはじめて現れたとされるのは丘の頂上。この丘をまねてピラミッドが作られた。階段状を止めて、丘の形に似せようと直線の稜線を持って建設しようとした。

ところが、設計(工法)が間違っていた。初めは54度の傾斜で築き始めていた。そのまま54度の角度で巨石を積み上げていくと頂上が出来上がる頃は崩壊する恐れが出てきた。途中で傾斜角度をゆるくした。傾斜角度が変わって屈折した形となった。下部は54度、上部は43度の傾斜の屈折ピラミッドが出来上がった。

(写真:屈折ピラミッド、 右の写真:近くで見ると写真の上の部分は崩壊を止めるそちがとられていた。)


スネフェル王はこれに満足しなかった。屈折ピラミッドの北1kmのところにもうひとつ屈折ピラミッドの上部43度の傾斜と同じ傾斜のピラミッドを建設した。高さは105m、ピラミッドの中では3番目に高い。規模では、クフ王のピラミッドに次いで2番目に大きい。遠くから見ると赤みがかってみえる。赤のピラミッドと呼ばれている。この赤のピラミッドが世界最初の真正ピラミッドである。

最初から赤かったのではない。建設当初は白い石灰石の化粧石に覆われていた。しかし、化粧石の大部分が剥がされ持ち去られてしまった。中から現れた花崗岩が赤みかかっている。ピラミッドのそばで見ても赤くは見えない。茶色というか黄銅色っぽかった。1km離れた屈折ピラミッドからは、確かに赤みがかってみえた。私としては、この赤のミラミッドが美しかったので良かった。このピラミッドを作った石は、ダハシュールから南へ1170kmも離れているアスワンからナイル川を船で運び込んでいる。

(写真:屈折ピラミッドのところから見た赤のピラミッド)


屈折ピラミッドも赤のピラミッドも王様の棺は発見されてない。ガイドのリハムさんが説明してくれた。初めの頃の王様はピラミッドには入りたくなかったようだ。

旅行に行く前は、ピラミッドにもいろいろあるんだなぁーぐらいにしか思っていなかった。現地にきて説明を聞くと、ピラミッドの変遷が分かり面白かった。旅行雑誌るるぶにその変遷がうまくまとまっている図があった。お借りしてみた↓。現在までに発見されているピラミッドは138基。
ピラミッドの変遷 128182111210916328980_IMG_0006adjbb

階段ピラミッドや屈折ピラミッドは、現在、砂漠に囲まれている。建設した当時のあたり大きな林だったようだ。
屈折ピラミッドからバスで少し走るとナツメヤシの原生林が見えてくる。
オアシスのやしの実が一番高いそうだ。茶色の実が一番おいしいと教えてくれた。
1年を振り返ると、収穫の季節があって、乾燥期を迎える。やがてナイル川が氾濫を起こす。そして収穫の季節がおとづれる。この繰り返し。よみがえりの発想が根づく。そんなことから、死後復活の思想が生まれる。エジプト人は生前からお墓のことを考えて生活しているそうだ。



さて、話をピラミッドに戻すと、このようなピラミッドの形が漢字の「金」の字に見えるでしょうか?「金」の冠部分がピラミッドの形に見えると言われれば、なんとくそうかもしれないという気分。5000年前からの偉業を現世に伝えている。後世に永く残る業績を意味する「金字塔を打ち立てた」の“金字塔”は、文字の形からピラミッドを意味している。

すばらしきかな「令」

3月末から4月初めは、イチローの引退と新しい元号「令和」が新聞やTVの話題となっていました。年が変わって新たな気分になったなと思ったら、今度は元号が決まってまた新たな気分になれる。10連休にもなる。2回目のお正月が来るような気分。

新しい元号「令和」は数字で表すと「018(レイワ)」となります。
覚えやすくて便利ですね。何が?西暦に変換するときです。
令和の年数に18を足すと西暦になります。令和元年は1+18で19。2019年。来年は令和2年だから2+18で20。つまり2020年。
ちなみに、私は明治から平成までの年は、明治の場合67、大正は11、昭和は25、平成は88と変換基準数として覚えています。令和は018で18。覚えやすい。

平成天皇がやったことの一番の成果は譲位ですかね。
昭和から平成に移るときは、国全体が沈痛な気分に包まれていた感じ。
一昨年の平成天皇のTVメッセージでは、崩御によって経済が停滞する、
これでは、遺憾と思って早めに引退するというメッセージもあった。
今回は、確かに、新しい元号だ、めでたい、めでたいの明るい雰囲気が大勢。

新しい元号は、新たに国書からとなったわけだけど、万葉集の「初春令月、気淑風和」は中国の古典「文選」に収録されている後漢の学者・張衡の「帰田賦」)の一部、「仲春令月、時和気清」からの引歌。いわば本歌取りのようだから、ハイブリッド典拠というわけです。本歌は漢書ということで伝統派も反対しづらい。漢書から国書への引継ぎとして、絶妙な技を繰り出したと勝手に思っています。

一方で、新しい元号に社民党の党首又市征治さんと共産党、それに自民の元幹事長の石破茂さん、本郷和人東大教授がいちゃもんつけてました。どれだけ批判したところで新しい元号が変わるわけはない。皆が何となく新しい時代を迎えるめでたい気分になったのだから、素直に喜びのコメントを寄せればよいのにと思いました。

石破茂さんは、最近野党の人かと思うような発言が目立ちます。かつては、総裁候補最右翼のようでしたが、最近はだんだんと霞んできています。社民党の又市党首は、令の字が命令の令に使われていて、国民への規律や統制の強化がにじみ出ているといったコメント。

エー??と思いました。忖度!、忖度!と批判ばかりしているが、少しは全国の「令子」さんの気持ちを忖度しろ。令の字が「規律や統制の強化がにじみ出ている」と言われてどんな風に受け止めたのだろう?しかも、どの口をもって、漢字にケチをつけるのだかとも思う。全国の「令子」さんに代わって、あなたの名前「征治」にケチつけられたらどんな気分だと聞きたくなる。又市党首は1944年の生まれ。この年代が生まれた時は、太平洋戦争の真っ最中。親は、戦争に勝つことを祈って、敵国を征服することを願って、「征」の字を生まれてきた子につけることが多かった。「征治」は戦争の臭いがプンプンする名前です。

東大の本郷教授は「『巧言令色、鮮し仁』という故事を引用し、仁の心に欠けている”という意味でよくないと説明している。しかし、これは、巧言と令色という言葉になった場合であり、漢字そのものに仁がないということとは違うと思うんですね。例えば「巧」一文字であれば、どちらかといえば肯定的な意味合いが強いです。同じように「令」も一文字であればよい意味を持っているのではないか・・・と思っていました。令月であれば、きれいな月とかいう意味があって、令にはそんな意味があって、親は娘に令子と名づけるのかなと。

昨日の日経新聞の最終面「遊遊漢字学」には、京都大学名誉教授で漢字学者の阿辻哲次さんが、この「令」について解説している面白い記事が載っていた。この人の記事は面白い。いつも読んでいる。以下に張り付けておきます。

(引用)
「すばらしきかな「令」 阿辻哲次」

台湾に行った時にスーパーマーケットで買い物をしていると、緑のプラスチックボトルに入った家庭用洗剤があって、容器に「魔術靈」と書かれていた。「靈」(常用漢字では「霊」)は「(クスリなどが)よく効く」、あるいは「頭の回転が速い」ことを表す漢字で、中国語ではリンと発音する。はて、この洗剤はどこかで見たことがあると考えていて、ハッと気づいた。それは花王が台湾で販売する「マジックリン」だった。
「三つ違いの兄さんと」と語る義太夫が有名な、「壺坂霊験記」という浄瑠璃がある。座頭の沢市は妻お里が毎日早暁に外出するのを不審に思って問いつめると、お里は沢市の目が治るようにと壷阪寺の観音様に願掛けに行っていたと打ち明ける。この信仰心の篤(あつ)い夫婦の願いを聞き届けた観音の救済によって、沢市の目が再び見えるようになり、それがタイトルにある「霊験」である。
敬虔(けいけん)な信仰に対して神仏が示す不思議な験(あかし)を「霊験」といい、また「霊峰」や「霊薬」ということばがあるように、「霊」という漢字には「はかりしれないほど不思議な」とか「神々しい」「とても素晴らしい」という意味がある。
しかし「霊」の旧字体である「靈」は二十四画もあって、書くのがはなはだ面倒だ。それで早い時代から、「靈」と同じ発音で、ずっと簡単に書ける「令」があて字として使われた。こうして「令」に「よい・すばらしい」という意味が備わり、やがて「令嬢」とか「令息」といういい方ができた。
新しい元号「令和」の出典とされる『万葉集』巻五の「初春令月、気淑風和」に見える「令月」も「令」を「すばらしい」という意味で使い、「(新春の)よき月」であることをいう。
友人夫婦が結婚披露宴にまねかれたところ、奥さんが指定された席に「令夫人」と書かれたカードが置いてあった。そのカードをしばらく見ていたわが友は、「そうか、いつもおれに命令ばかりしているから、女房を『令夫人』というのか」とさとったという。まことにユニークで秀逸なこの解釈を掲載する辞書は、どこかにないものか。
(引用終わり)

東大の本郷教授は、TVで自分が考えた元号を披露していたみたいです。しかし、よく調べもしないでケチをつけたから、次の元号選定の時にも阿辻先生には声がかかったとしても、本郷教授にはお呼びがかからなくなってしまったことは間違いないです。
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