RSS

イタリア旅行記 その10/11  ーー ローマ市内観光 コロッセオ ーー

「一灯照隅的なお話 (http://light4you.blog.fc2.com/blog-entry-82.html)」の345灯ともした頃から、灯りの置き場所がなくなってしまったので場所を変えました。
最初のお話はここで、最後のお話がここにあります。
4年半ぐらいで345話ほど書いたことになります。

イタリア旅行記の続きから。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
イタリア コロッセオ パノラマ DSC_2313-PANO

ローマ市内を日本人女性ガイドのケイさんに案内してもらっている時に聞けた、ガイドブックには載ってないような話の続きです。

・コロッセオの奴隷
戦争は勝つに限る。負けた方は被征服民で奴隷となる。戦争で負けて奴隷となった人たち次の戦争で兵士として駆り出される。その時までは雑役ででこき使わされる。コロッセオを造らせた。コロッセオは誰が造ったかわかっていない。というのも、コロッセオは設計から竣工まで被征服民となった奴隷の手で行われた。

奴隷といっても、ローマ帝国が戦争で負かした国の知識人も多い。この頭脳明晰な奴隷がコロッセオの設計を担当した。近隣諸国から調達してきた奴隷は優秀だった。労役も多くの奴隷が提供した。コロッセオはわずか8年で完成した。完成してしまったら、奴隷に他にやらせることが無い。今度は見世物としてコロッセオで奴隷同士戦わせた。猛獣とも戦わせた。初のうちは真剣に猛獣との戦いがあったのかもしれない。しかし、ライオンなどの猛獣は貴重だ。アフリカで生け捕りにする方がよっぽど危険が伴う。ライオンの歯を削って平らにする代わりに、猛獣と戦う奴隷にも手加減しろと言いつけた。コロッセオで多くの血が流れたが、奴隷同士の戦いによるものが多かった。

イタリア人にコロッセオを造らせたら8年なんかでは完成はしなかっただろう。少なくとも20年はかかる。なまじ、優秀な奴隷たたちが頑張って早く完成させてしまったから、自分達の血を流す結末が待っていた。

コロッセオの外装 現在の状態とその復元図
イタリア コロッセオ 復元図

コロッセオの内部 現在の状態とその復元図
イタリア コロッセオ 元の図と復元図

・コロッセオのアーチ式建築技術
 コロッセオの中にアーチがあるレンガを積み上げ、積み上げられたレンガの力で支えあっている様式である。その建築様式は日本にも受け継がれている。長崎の眼鏡橋がそうだ。説明しているガイドさんの声がなんとなく沈んでいる。

ガイド:「その長崎から先生方を案内したことがあるんだ。その人たちにここで説明していたら、突然、日本大使館の人がやって来た。『この中に、XXXさんいませんかぁって?』」・・・・で、XXXさんが名乗り出た。『すぐに日本に戻ってください』と言う。長崎が大雨で大洪水となった。眼鏡橋も流された。XXXの家が洪水の被害にあった。ご家族全員が亡くなったと。XXXさんは旅行に来ていたので助かった。一緒に来ていた人は皆泣き出してしまった。突っ伏して泣いていた人もいたよ。」
私:「学校の先生は海外に行く時は届け出しておいたから、居場所が突き止められたんだ。いつ頃の話?」
ガイド:「うーん、1980年頃だったかな。」
(1982年に長崎市では50年に一度と言われるほどの大洪水がありの石橋の多くが流された。眼鏡橋の一部も流されている。)

・バチカン市国の独立の背景
ムッソリーニは、ヒットラーを全く信用してなかった。いつかヒットラーがイタリアに侵略し、イタリアのお宝が奪われることを心配した。そこで、長い間喧嘩していた教皇側と和解し、バチカン市国として独立させた。(バチカンは1929年に独立国となった。)さすがに、独立したバチカンにはヒットラーも攻め込まないとの考えてのこと。そして、イタリアの宝をそのバチカン市国に隠した。ムッソリーニは頭が良かったんだ。
スポンサーサイト
コメント
▼このエントリーにコメントを残す

   
≪前のエントリー≪  ≫次のエントリー≫