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ドローンのお話(その2/2)  --昔、ドローンを組み立てていた女工さんのお話ーー

英語のドローン(Drone)にはオス蜂の意味があるという言ことは、以前のブログで書きました。ミツバチのぶんぶん飛ぶ音が、複数のプロペラを高速で回転させ、ぶんぶんと蜂の羽音のような音を出しながら飛ぶことから電動のマルチコプターをドローンと呼ぶようになったという解説があることを紹介しました。しかし、本当にそうなのかとも思っていた。やはり真相は別のところにあった。

 そもそもどのようにドローンが広まっていったのかというと、無線技術の発達により遠隔操縦で飛行機を操縦できるようになったのが1930年代のことで、1935年に英国の軍隊で有人の複葉練習機(デハビランド・タイガーモス)を無人機に改造したことからであった。地上からの射撃練習を行う際に”標的”として飛ばした。無人機といえどそれを一機一機打ち落としていたら費用がかかる。実際には機体から幕を垂らし、それを標的として射撃練習した。間違って機体に当たっても無人機であれば安心。これらの英国の標的無人機は「Queen Bee」(女王蜂)と呼ばれていた。

これを米国がまねした。米国で最初に採用された機体は、1940年代に開発されたRadioplane社の無人機である。英国の無人機が「Queen Bee=クウィーンビー」(女王蜂)と呼ばれていたことに敬意を表し、(あるいは対抗する意味で)米国ではオス蜂を意味する「Drone=ドローン」(雄バチ)と呼ぶようになった。

 さて、そのRadioplane社であるが、英国の映画俳優が作った会社である。ロサンジェルス市の近郊、ハリウッドに隣接しているバーバンク市にあった。米国陸軍と深いつながりのある軍需工場であった。その工場では、1日10時間、週給20ドルで、女工さんたちが働いていた。ドローンを組み立てたり、プロペラに防火液をスプレーしたりしていた。

第2次世界大戦の真っ最中の1945年6月のこと。米国陸軍の広報班は、ドローンを取材するために写真班のデイビッド・コノバーをそのRadioplane社に派遣した。コノバーは単にドローンを組み立てている作業の写真だけでは味気ないと思った。ジーンという名前の女工さんが働いていた。なかなかの美人。会社のピクニックで女王に選ばれ50ドルを獲得していた。コノバーはこの女工のジーンと一緒にドローンを撮影することにした。その写真が陸軍の広報誌に掲載された。当時としては珍しいカラーの写真であり、たちまち評判となった。注目が集まったのはドローンやカラーの写真ではない。ジーンの方であった。ジーンの人生は、その後、この一枚の写真によって大きく変わってしまった。

ジーンの下には、雑誌の写真モデルやピンナップモデルの話が舞い込むようになった。写真のモデルを繰り返しているうちに、映画にも出演するようになった。ハリウッドへの道が開けた。ジーンは映画界で、誤作動で空高く急上昇し始めたドローンの如く、たちまち映画界の話題をさらっていった。10年たたずに世界的に有名な女優、世の男性の誰しもがその名前を知るほどのスターダムにかけのぼった。女工さんからスターへとんとん拍子に駆け上がったジーンのフルネームは、ノーマ・ジーン・ドーワティ。

ン、誰?という方がいるかもしれない。たぶん、そういう方のほうが多いでしょうね。というのも、ジーンは、ハリウッドに行くとすぐに名前(本名)を変えていた。女工ジーンがハリウッドに行ってから使った新しい名前は、マリリン・モンロー。
モンローを発掘するきっかけになった写真がこれ。まだ金髪に染めてない。

陸軍からRadioplane社に部下のコノバーを写真撮影に派遣させた彼の上司もマリリン・モンローを発掘するのに一役買ったと言えるのかもしれない。この大尉も後年ハリウッドの俳優となっている。しかし、大根役者だったのだろう。マリリン・モンローほど売れなかった。といっても、モンローと同じくらい、あるいはそれ以上に有名になった。人気を得たのは銀幕の世界ではなく、政治の舞台で。マリリン・モンローを世に送り出すきっかけを作った部下の写真家デイビッド・コノバーを派遣した大尉とは、その後第40代大統領になったロナルド・レーガン。
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