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殿、ご乱心

(5月28日付時事ドットコムから引用)
立憲民主党は28日、夏の参院選静岡選挙区に新人で政治経済評論家の徳川家広氏(54)を擁立すると発表した。徳川氏は徳川宗家19代目で東京都出身。同選挙区では国民民主党の現職も出馬を予定している。
(引用終わり)

 令和の時代が始まり10連休が明けた最初の平日の夜に、今回立候補を表明した徳川家広さんの岳父(おじ)にあたる方と飲みました。その時、徳川家広さんが北海道知事選の出馬は思いとどまったものの、今度は夏の参議院選挙に出馬するという話にも及びました。岳父さんは、参議院議員に立候補すること自体に加え立憲民主党からということで、大変渋い顔をしていました。
ご先祖様が長年日本を統治していたのだから、政治に興味を持つのは血筋かもしれません。でも、元華族のお家柄の方が、3%の支持率しかない立憲民主党からというのはやはり違和感があります。

 今回の参院選で静岡県の改選議席は2つ。2001年からは自民党と民主党(民進党→国民民主党)が議席を分け合ってきている。自民党が議席を守るのは確実。残る1つを国民民主党の現職と争うことになる。野党同士で争うってどうするという気もします。間隙をついて自民党が議席独占を狙って二人目を立ててくる可能性もある。家広さんにとっては決して安泰な選挙というわけではない。というか、静岡で立候補する理由が「先祖代々縁が深い」というだけでは、危ないんでないかい。今川義元の末裔が立候補してくれたら、戦国絵巻の現代版で面白いんだけどな。
                                      
 いずれにせよ、この家広さんの立候補は夏の参議院選の見どころになるでしょう。私がTVや雑誌の編集者なら、幕末を思わせる「長州と会津の戦いの再来」なんて感じで面白おかしく書き立てます。安倍首相は長州の出身。対する立憲民主党から立候補する家広さんは、会津松平家の血筋を引いている。徳川家広
 (写真→:中央が家広さん)

 この辺をすこしお話しましょう。家広さんのお父さんである恒孝さんは、徳川宗家に養子に迎えられている。旧姓は松平。会津松平藩の血筋。先日私が一緒に酒席をお供した方は、この恒孝さんの実弟。若かりし頃、私の直属の上司でした。回りの女性社員からは「トノ、トノ」と慕われていた。そんなわけで、私は殿様に仕えていたことになる。

 ちなみに、そのトノですが、現在はクラリネットのジャズ演奏家として活躍している。一流ミュージシャンになっている。そのトノが、かつて会津若松城(鶴ヶ城)を訪れた時には、城内に入場する際はちゃんとチケットを買ったそうです。「世が世なら・・・・」と言ってました。ブフフ。

 さて、その家広さん、どうも破天荒(注、破天荒の本当の意味は、「今まで人がなし得なかったことを初めて行うこと」、「前人未到の境地を切り開くこと」)な人のようだ。奥さんは、なんとベトナム人。国際連合食糧農業機関(FAO)のトナム支部に勤務したときに恋仲に陥った。40歳過ぎたころに、両親の猛反対を押し切って11歳年下のベトナム人女性と結婚。まぁー、破天荒は絶えず変化する時代を生き残るには良いことなのでしょうけどねぇ・・・・。しかし、子宝に恵まれてない。天皇家と同じように格式の高い家は、下々と違い跡継ぎ問題で頭を悩ませることになっている。上も下も悩みは尽きません。

 お家を存続させるには跡継ぎが必要です。それだけではありません。絶えず変わりゆく社会へうまく対応することが必要です。政策の変化や、世の中を動かす仕組みが変わったりする時に、生き残るのは、強い者ではなく、変化に対応できる者です。会津の鶴ヶ城が滅びたのも、この変化に対応できなかったからです。

 その会津松平藩の初代藩主は保科正之(ホシナマサユキ)。高校レベルの日本史には出てくる人です。日本史上、屈指の名君との呼び声も高い殿様です。生みの母、お静は、秀忠の乳母の侍女。大工の娘。二代将軍の徳川秀忠の寵愛を受け、正之を産んだ。正之は将軍の「ご落胤」。だいたい、こういう生い立ちの人が正統派の人よりも人格に優れ、良い政治を行いします。例外もいるかぁー?ルーピー鳩山(鳩山由紀夫、現在は友紀夫と改名)なんかそうかな。ルーピーは妾の子。異母であるから兄弟でも似てない。鳩山家では、亡くなってしまったが弟の邦夫の方が本流だった。

 保科正之は信濃の国高遠藩藩主の保科家で秘密に育てられた。ご落胤が表沙汰になると、たいてい正室側の人たちから刺客が向けられますからね。三代将軍となる兄の家光は、長い間そのことを知らなかった。後年、身分を隠して目黒に鷹狩の遊びに行き、そこの寺で休憩していた時にそこの僧侶から正之という弟の存在を知らされる。

 三代将軍家光は、異母弟でありながら忠実に幕臣として使えるこの弟をことのほか可愛がった。高遠藩の藩主からやがて初代会津藩主に出世させて行く。この恩があったからこそ、正之は家訓の第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」を設けた。徳川宗家への至忠である。会津藩は、この家訓を忠実に守り、幕末になると火中に栗を拾う京都守護職を引き受けて新選組を取立て、会津若松城(鶴ヶ城)の籠城戦で滅びるまで戦った。

 新政府軍に対しての会津若松(鶴ヶ城)の籠城戦は当初は一進一退だった。これに決着をつけたのが、佐賀藩が会津城の南西に位置する小田山に大砲を据え砲撃を始めたこと。
アームストロング砲という飛距離が長く、後ろから砲弾を詰め込めるので連続的打ち込むjことができる新兵器の導入でした。飛距離と威力で籠城戦が無意味になった。
鶴ヶ城
(写真↑:小田山から見た会津若松市街)

保科正之は、幕府側から松平を名乗れと進められた。ところが、育ての親である保科家に恩を感じ、断った。そんなところも律儀です。あ、そうそう徳川様の親戚がなぜ松平と名乗っているのか、上司と会ってからしばらく疑問をもったままでした。学校で教えてくれたのかもしれない。ボーッと聞いていたのでしょう。徳川家康が生まれた家は、三河国の土豪の松平家。幼名は竹千代。成人して松平元康から徳川家康と改名している。保科正之は松平を名乗らなかったが、孫の代に松平と名乗っている。

 話を戻して、会津若松城(鶴ヶ城)の攻防を決定づけた大砲であるが、なぜ佐賀藩が大砲に優れていたかという疑問がでてくる?佐賀藩には高島秋帆(タカシマシュウハン)という独学で砲術を完成させた人がいた。日本史の教科書には出てこなくても、すごい人がいたんだね。佐賀藩の近代的大砲技術の始まりは、この長崎町年寄だった高島秋帆という人がいたからだった。フェートン号事件等の諸外国の武力に対抗するために輸入本を参考に製鉄技術や大砲技術を一から学んで磨き上げたものだった。鎖国していた時代です。長崎で育った秋帆は、日本砲術と西洋砲術の格差を知って愕然とした。出島のオランダ人らを通じてオランダ語や洋式砲術を学び、私費で銃器等を揃え天保5年(1834年)に高島流砲術を完成させた。

 秋帆は、天保12年(1841年)6月、武蔵国徳丸ヶ原で日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行なった。この演習の結果、幕府からは砲術の専門家として重用された。ここまでは幕府も秋帆も良かった。その後、幕臣・旗本、鳥居耀蔵(トリイヨウゾウ)の妬みにあい「密貿易をしている」という難癖の下に、幕府は、秋帆を幽閉してしまった。変化に対応する絶好のチャンスを自ら潰してしまったわけです。

この鳥居耀蔵というのがこの時代の癌だったみたい。遠山の金さんも幽閉している。会津鶴ヶ城の籠城戦は大砲がなくとも、時代の趨勢として遅かれ早かれ落城したでしょう。しかし、江戸幕府が秋帆の進言を受け入れ、大砲の技術にさらに磨きをかけてていたら、海軍力では新政府軍に優っていたから大政奉還はなかったかもしれない。

 ところで、秋帆が公開演習を行った徳丸ヶ原は、そのころは荒川の後背湿地で、腰までつかるような湿地帯と沼地が点在する荒原だった。1869年(明治2年)に民間に払い下げられ、水田として開拓された。東京23区内でも最後の水田地帯として残っていた。1966年12月から土地区画整理事業が実施され、この地域には高層団地が多数建てられた。かつて高島秋帆が大砲の公開演習を行った徳丸ヶ原は、現在、その名にちなんで「高島平」と呼ばれている。
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コメント
3:旅行記だけでない面白さ by 雪月花 on 2019/06/18 at 17:22:39 (コメント編集)

浅学立志二世さんは
本当に博識ですね、、
ちょっと 寄るだけのつもりが 文章面白く、知識も感心するので 時間がたつのも忘れます、、、
結構主張も盛り込んでいて、何を言いたいのかわからない文章が多い中 読んでて気持ちよいです
いろんなことを経験されているのが コアに積まれているのでしょうね

4:Re: 旅行記だけでない面白さ by 浅学立志II世 on 2019/06/19 at 06:55:06

雪月花さん

おほめのお言葉ありがとうございます。
結構、ネットサーフィングしているので、面白そうなトピックがあればそれをもとにお話を書いています。
しかし、最近遊びに忙しくなって、ブログを書くのも滞りがちです。1週間に1回程度の更新を心がけていますので、
思い出したころに寄ってみてください。
また、コメントを書いてくれると嬉しいです。

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